ゆううつなつうかく
2012.05.04 Friday
日記をサルベージ。今年の1月末に打つだけ打っていたもの。
−―――――――−
自分が世界を作っているんだと、ずっと思っていた。
物事の解釈をするのは結局つまるところ自分で、他人が「これは黒だ」と言っても、本当に自分が「白だ」と思っているのなら、それは白だというように。
だから自分の心持ち次第だと思ってきた。
でもそれだけで世界ができているんじゃなかった。
そんなのは、そう思いたかっただけで、そう信じたかっただけで、何にも実際には変わらないんだ。
私の現実があるように、人それぞれにその人の現実がある。
多様性を認めてなかったというわけじゃなくて、自分がそう思うならそれでいいんだと思ってた。
別に他人と同じでなきゃいけないなんてことはないんだって、それはどんなときでも不変のことだと。
でも、現実は自分の認識で通る話じゃない。その人の現実が、その人にとっての現実で、それが事実なんだ。
今まで思いとか考えとかそういうのが大切だと思って生きてきたから、現実なんてそれに比べれば重要じゃなかった。
どんなときでも現実的じゃなくて、それに合わせなきゃいけない場面では鋭利なものを突きつけたくなるほど嫌だったし、早くそんなものは消えてしまえって思ってた。
それがわたしの価値観だった。
歳を重ねるほど、輪郭すらぼやけてしまうような思考しか残らなくて、昔はこうだったのになっていう思いだけが積もっていって、さらに自分を面白くなくさせていく。
鈍って腐っていくのを感じているんだと思う。
それは積極的に捉えるなら、現実と折衝しているからだといえる。そんなに肯定的な見方はできないけれど。
だから現実的で物事を具体的に考えている人の前に立つと、光と影のようだと感じて、みじめな気持ちになったりまですることもある。
だってどう考えたって、そうしたスタンスの方が生きやすくてわかり易くて、他人に伝えやすくて、形にしやすいし形になりやすい。
わかりやすいことって、とっても価値のあることだと知ったのは最近。
わかりやすいということは自分にとってそんなに意味のあることではなかった。
伝わらないほどに難解だったり、整理されていないと感じられるほどでなければいいだろう、くらいの認識だった。
だけど、そんなに人は注意して解釈してくれなどしない。それが事実。
解釈が必要なものは嫌われる。面倒だからだ。興味のないことにそんな無駄な時間は割いてくれない。
わかりやすければ、それだけ短時間で多くの人に理解してもらうことができる。
人と交わるほど、他人にどう認識されるか、どうコミュニケーションをとるのかが重要になってくる。
一度形成された像は、なかなか壊されない。修正はされない。付け加えられるだけ。
それを逆手にとってコミュニケーションを取るのも、方法の一つだと思う。
そう、でもそれは、わたしの本心にそぐわないんだ。価値観に合わない。だけどそれは現実に合わない。
普段はできるだけ擬態してるつもりだし、それなりに上手くいってると思う。
不具合にそれほど気付かないだけかもしれないけれど、それくらいの鈍感さは自分を守るために必要だろうっていう姿勢だから、別にいい。
コミュニケーションの中で、他人に迷惑をかけないで成立しているものなんかないってことを知ったから。
ここでいう迷惑っていうのは、遠慮も含む。思いやるってことも含む。
思いやるって善のように扱われるけど、それってどこかでその人の何かを抑制しているってことだ。全て自由に表現できることを善とするなら、思いやりを純白な白だとはいえない。
だけど、自分が嫌だと思っていること、苦手なところに関しては、つい抽象に逃避してしまう。架空の空想すら描いてしまう。
だからわたしはまた、現実を嫌悪するのだろう。
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自分が世界を作っているんだと、ずっと思っていた。
物事の解釈をするのは結局つまるところ自分で、他人が「これは黒だ」と言っても、本当に自分が「白だ」と思っているのなら、それは白だというように。
だから自分の心持ち次第だと思ってきた。
でもそれだけで世界ができているんじゃなかった。
そんなのは、そう思いたかっただけで、そう信じたかっただけで、何にも実際には変わらないんだ。
私の現実があるように、人それぞれにその人の現実がある。
多様性を認めてなかったというわけじゃなくて、自分がそう思うならそれでいいんだと思ってた。
別に他人と同じでなきゃいけないなんてことはないんだって、それはどんなときでも不変のことだと。
でも、現実は自分の認識で通る話じゃない。その人の現実が、その人にとっての現実で、それが事実なんだ。
今まで思いとか考えとかそういうのが大切だと思って生きてきたから、現実なんてそれに比べれば重要じゃなかった。
どんなときでも現実的じゃなくて、それに合わせなきゃいけない場面では鋭利なものを突きつけたくなるほど嫌だったし、早くそんなものは消えてしまえって思ってた。
それがわたしの価値観だった。
歳を重ねるほど、輪郭すらぼやけてしまうような思考しか残らなくて、昔はこうだったのになっていう思いだけが積もっていって、さらに自分を面白くなくさせていく。
鈍って腐っていくのを感じているんだと思う。
それは積極的に捉えるなら、現実と折衝しているからだといえる。そんなに肯定的な見方はできないけれど。
だから現実的で物事を具体的に考えている人の前に立つと、光と影のようだと感じて、みじめな気持ちになったりまですることもある。
だってどう考えたって、そうしたスタンスの方が生きやすくてわかり易くて、他人に伝えやすくて、形にしやすいし形になりやすい。
わかりやすいことって、とっても価値のあることだと知ったのは最近。
わかりやすいということは自分にとってそんなに意味のあることではなかった。
伝わらないほどに難解だったり、整理されていないと感じられるほどでなければいいだろう、くらいの認識だった。
だけど、そんなに人は注意して解釈してくれなどしない。それが事実。
解釈が必要なものは嫌われる。面倒だからだ。興味のないことにそんな無駄な時間は割いてくれない。
わかりやすければ、それだけ短時間で多くの人に理解してもらうことができる。
人と交わるほど、他人にどう認識されるか、どうコミュニケーションをとるのかが重要になってくる。
一度形成された像は、なかなか壊されない。修正はされない。付け加えられるだけ。
それを逆手にとってコミュニケーションを取るのも、方法の一つだと思う。
そう、でもそれは、わたしの本心にそぐわないんだ。価値観に合わない。だけどそれは現実に合わない。
普段はできるだけ擬態してるつもりだし、それなりに上手くいってると思う。
不具合にそれほど気付かないだけかもしれないけれど、それくらいの鈍感さは自分を守るために必要だろうっていう姿勢だから、別にいい。
コミュニケーションの中で、他人に迷惑をかけないで成立しているものなんかないってことを知ったから。
ここでいう迷惑っていうのは、遠慮も含む。思いやるってことも含む。
思いやるって善のように扱われるけど、それってどこかでその人の何かを抑制しているってことだ。全て自由に表現できることを善とするなら、思いやりを純白な白だとはいえない。
だけど、自分が嫌だと思っていること、苦手なところに関しては、つい抽象に逃避してしまう。架空の空想すら描いてしまう。
だからわたしはまた、現実を嫌悪するのだろう。
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